いののすけのブログ

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山戸結希監督作品鑑賞の記録

 2019年11月29日、映画祭TAMA CINEMA FORUMの一環にあった「暗闇の中の光ー山戸結希監督特集ー」を観に行きました。そこでは2作の上映とトークがあり、どれも面白かったのですが、そのなかの「ホットギミック ガールミーツボーイ」にとてつもない衝撃を受けました。その週では映画祭の前に「おとぎ話みたい」、「5つ数えれば君の夢」、「21世紀の女の子」を観ており、映画祭では「溺れるナイフ」も観たのですが、とにかく最後に観た「ホットギミック ガールミーツボーイ」が強烈な印象を胸に残し、今も離れません。そこでこの印象の正体や、一週間で山戸結希監督の作品群に触れた際に思考したことなどをまとめて言葉にして残しておきたいという気持ちに強く駆られました。なので時間をかけて言葉にして、また関連するインタビューや山戸結希監督が特集された「ユリイカ」も参考にしながら、つたないながらも自分の言葉でまとめたいと思います。しばしお付き合いください。(ネタバレを含みます)

 

 そもそもなぜ山戸結希監督の作品を観ようと思ったのか。それが明白ではない。初めて名前を知ったのは、おそらく最果タヒ「君の言い訳は最高の芸術」の帯文であったように思う。ここに山戸結希監督は次のように寄せている。

わたしの指先だけが知る孤独に、そっと光を注ぐように、あなたの一人称で同時代を生きさせていただきました。(最果タヒ「君の言い訳は最高の芸術」河出文庫、2019年 帯より)

  この言葉が出会いであった。確かに「一人称で同時代を生きる」という一瞬呑み込めなかった言い回しがあり、少し引っかかるものはあった。ただこの言葉ですぐに作品を調べたわけではない。作品を見るのはもう少し先である。

 この次に山戸結希監督の名前に触れたのは日本映画専門チャンネルである。なにしろ「ホットギミック ガールミーツボーイ」公開記念で特集が組まれたのである。思い出してきたがこの時なぜ録画しようと思ったかというと、特集の中の短編集に「さいはてれび 文庫の詩」が入っていたためである。ここ2,3年、私は最果タヒのファンとなり、著作等を読んでいた。それで気になって録画をしたのである。ただこの時は録画をしただけで観なかった。今思うと一つでも観て、映画館に足を運べばよかったと思うが、悔やんでも仕方ないし、またしょうがなかった。

 それから3か月ぐらいたったある日、映画を観たいと思い、録画を探っていたところ、山戸結希監督に行き着いた。そして見やすい短編集から見ようと思い、短編集を流したのである。長くなったが、これが見るきっかけである。

 その中に目的だった「さいはてれび 文庫の詩」があり、一度は見たものの改めて見てみると、圧倒された。これは「21世紀の女の子」や「ホットギミック ガールミーツボーイ」にもつながるものだが、言葉の掛け合いがすごいのである。物語は恋を自供させようとする女子と恋をかたくなに認めない女子のやり取りで展開していくのだが、ここまで言葉で圧倒させることができるのか、と感動を覚えたものである。言葉の渦の中に自分もまきこまれ、うねりの中で交わされる言葉を聞いていた。

 そしてその頃「21世紀の女の子」がソフト化記念上映をすると知り、テアトル新宿まで足を運んだ。そのなかの「離ればなれの花々へ」も「さいはてれび」同様言葉のやり取りが主眼となっており、このときも渦に巻き込まれたような気分になった。そしてほかの作品も観たいという気持ちが募っていった。

 そうして調べていくうちにTAMA CINEMA FORUMでの記念上映を知り、行くのを決めると同時に、その他の過去の作品もできる限り網羅した。そして今に至っている。

 長くなったが、出会いのきっかけを書いてきた。では次に過去作4作についてまとめていきたい。本来は作品を古い順に考えるのが筋かもしれないが、ここでは私が観た順にまとめる。

 

 まず「21世紀の女の子」である。これは山戸結希監督が企画・プロデュースをした作品であり、すべての映像が山戸結希によるものではない。だが山戸結希監督が前面に立っており、またこの作品を作品群の中で重視する向きもあるため、山戸結希監督作品として、考えていきたい。

 はっきりいってしまうと、この映画は今でもよくわからない。そこに表出される女の子たちの感覚や感情がはっきりとは入ってこないのだ。(これ自分が男だからだろうか。)それでも心惹かれる部分があるとすれば、それは「女の子」が主役を張っている点である。

 今回振り返って思ったのは、自分が今まで触れた作品における女性の創作に関してである。その中でも映画は特に女性のものが少なく感じたのだ。別のジャンルを見ると、音楽はmiwaや吉沢嘉代子、SHE IS SUMMERといった才能あふれる女性歌手をよく聴いていた。また読書でいえば、川上美映子や湊かなえ辻村深月といった女性作家に触れてきた。ただ映画ではあまり女性監督の作品を観なかったように思う。これは単純に自分が観た映画が少ないだけかもしれないが、私には有名な女性監督と問われて、名前が浮かばない。

 そのため「21世紀の女の子」は、自分が初めて映画という媒体で女性と出会った経験のように思う。だからこそ不思議な感覚(心に入りそうで入らない)といった感覚にとらわれていた。

 しかしそのような思いは最後から2番目、ED前のクライマックスに位置する山戸結希監督の「離ればなれの花々へ」を観て、一変した。そこで舞う3人の女の子、そして矢継ぎ早に交わされる言葉に圧倒されてしまったのだ。もちろん映像表現によるものもあったが、やはり圧倒された主たる原因は、言葉の性格である。そこで語られていた言葉は、女の子に対するあるいは女の子であることへの祝福に満ちていた。ここまで女の子のことを肯定的に語る言葉があっただろうか。もちろんあったのだろうが、ここまで鮮烈に印象に残った言葉はない。まさにそこにいる女の子たちを救うために蜘蛛の糸を垂らしているようなものだった。そしてここまで強烈に祝福を浴びる女の子のことをうらやましくも思った。

 映画館で観た後、この余韻は収まらずなかなか寝付けなかったし、翌日以降は主題歌を繰り返し聴いていた。とにかく不確かながらもとんでもないものを残していった、「21世紀の女の子」は自分にとってそんな作品である。この衝撃から山戸結希監督のいろいろな作品に触れたいという感覚を持った、そんな作品である。

 

 そして次々と作品を観た。次は「おとぎ話みたい」と「5つ数えれば君の夢」である。この2作品は山戸結希監督の初期作品ともいえるものである。確かに印象としては「21世紀の女の子」に及ぶものではなかったかもしれない。それでも違う箇所で気になったり、引き込まれる部分があった。

 まず気になったのは、背後で流れる音楽と映像の不調和である。私は映画の音楽は場面に応じたものが挿入されているものという考えが強かったため、この点が引っ掛かった。よく観ると、あまり関係ないような音楽が挿入されているのである。

 例えば「おとぎ話みたい」では本編中ずっとバンドおとぎ話の音楽が流れ続け、しかもライブ映像の挿入もある。「5つ数えれば君の夢」でも基本は音楽が鳴り続けている。こちらはピアノ曲であるものの、ほぼずっと流れている。これに関しては言葉にするのが難しかったが、「ユリイカ」に面白い文があったので、それを引用して一つのまとめとしたい。

様々な位相で、「少女」が客体的な存在から逃れられないことを自覚し、葛藤してきた山戸結希の映画であるが、むしろその音楽においては、外在的にも内在的にも「少女」をそこから大胆に解き放とうと画策するものである。自意識を持て余す彼女たちが「爆発」するとき、そこで鳴っている音楽は彼女たち自身のものであってほしいと、山戸はそう願っているようなのである。(木津毅著、「少女たちの爆発を待ちながら~山戸結希映画の音楽~、「ユリイカ]7月号第51巻12号(通巻743号)、2019年、p.131) 

  またこの二つの映画で印象的なのは、クライマックスシーンにある少女のダンスである。どちらもクライマックスで少女がダンスを踊る場面がある。そのシーンには圧倒するものがあった。「おとぎ話みたい」では詩を語りながら踊っていたし、「5つ数えれば君の夢」では無機質に「エリーゼのために」が響くなかで踊っていた。これに関しては「おとぎ話みたい」で言及のあったメルロ=ポンティに触れながら述べられると面白いのだが、あいにく私はメルロ=ポンティには詳しくないため、ここでは簡単に印象に触れる。

 ここでの少女の踊りは表現として迫真に迫るものだった。ここでは何に圧倒されたのか。印象として2つの踊りには解き放つものがあった。それは自分自身かもしれないし、少女という自分の身体かもしれないが、とにかく何かを解放する圧倒的な力を感じたのだ。このシーンでは映像にくぎ付けだった。映画でこんな圧倒的な表現ができるのかと深く感銘を受けた。まだ長く語れそうだが、そろそろ次の「溺れるナイフ」に行きたい。

 

 次は「溺れるナイフ」である。これは山戸結希監督にとって初めてのメジャー配給作品であるため、出演者に小松奈菜と菅田将暉が名を連ね、主題歌もドレスコーズが務めている。それでも初期作品から続くものは確かにあり、例えば劇中で違和感を感じる音楽の挿入であったり、少女の身体との向き合い方であったりである。そして大友のカラオケシーンや夏芽とコウが水に飛び込むシーンなど、印象的なシーンもある。ただ「溺れるナイフ」は同日に観た「ホットギミックガールミーツボーイ」の影響もあってか、うまくまとめるのが難しい。機会があれば後日観返したときにでも、改めてまとめてみたい。

 

 ここまできてようやく本題の「ホットギミックガールミーツボーイ」の話に移る。この作品には「21世紀の女の子」以上の衝撃を受けた。ここでは展開を追いながら、その衝撃を言葉にしていきたい。

 まずこの映画に感じたものは拒絶したい感覚だった。「ホットギミックガールミーツボーイ」は自分に自信のない主人公初(はつみ)と3人の男子(梓、亮輝、凌)の関係を中心とした物語である。最初観たときはこのうちの2人、梓と亮輝にとにかく嫌悪感がすごかった。まず亮輝は初の秘密を握り、ばらされたくなければ奴隷になれと言い、そのとき初が好意を寄せていた梓の前で露骨に連れ去ったり、キスを強要したりする。この辺りは少女漫画で出てくる俺様系男子と比しても当たりが強くて、嫌悪感を覚えた。また梓にしても理由があったとはいえ、初にレイプドラッグを飲ませたりするなど度が過ぎると感じる行動が多かった。そのため最初は嫌悪の気持ちが強く、映画を楽しめるのか不安になった。

 だが物語が進むにつれて、事は単純ではないことに思い至る。梓にしても両親のことがあっての行動であったし、亮輝も初のことを「見込みのあるバカ」と言っている。また凌の重大な秘密も明かされ、複雑さが増していく。もちろん最初の行動は自分としては受け入れがたいものであったが、ここに至るといろいろな思いを抱えていく。

 そのなかで初は揺れ動く。途中からは3人の中をふらふらと彷徨うようになっていく。ある時は亮輝といるが、あるときは凌といたりする。ここでは初の自信のなさが見て取れる。自分に自信の持てない初は自分を受け入れてくれる、一緒にいて心地の良い男子と時間を共にする。そして男子たちも初をめぐってぶつかったりしている。ここには十代に特有の青春の揺らめきがあり、また映像もきらびやかなシーンも多く、葛藤などをうまく描いているように感じた。

 ここまでで終わり、最後はだれか一人を選んで幸せになるという物語であれば、少女漫画によくある展開となり、ここまで印象に残ることはなかったであろう。だがここから物語は別の様相を見せてくる。

 それは初自身の変化にある。途中では自分に自信がなく、また選択もあまりしないため、3人の男子の間を揺れ動く主体性のなさが目に付く。ここは亮輝もことあるごとに初の意思を問うているところからも容易に把握できる。

 だが揺れ動く中で確実に初は主体性、いうなれば強さを獲得していく。そしてその主体性は最後一人を選び取るシーンから見て取れる。

 最後に初は1人を選ぶのだが、その選び方も従来の少女漫画とは異なるものがある。そもそも多くの少女漫画では結婚をゴールとしていることが多く、それを多くの女子の幸せと考えている節がある。だが「ホットギミックガールミーツボーイ」はそこを終わりとはせず、現在の時間のまま終わり告げる。そしてそのクライマックスに初と亮輝の言葉の掛け合いが挿入されており、このシーンが本作の主眼となっている。

 そこで交わされる言葉は言葉と呼べるものかも怪しい。いわば感情の発露、詩的な言葉が交わされる。細かい部分を読解するのは一度では難しかったが、それでも印象に残る言葉がある。それは「分からない」である。このシーンで初は「分からない」を連呼する。あらゆる問いに対して「分からない」と答える。だがここでの「分からない」はネガティブなものではない。このシーンからは初の「分からない」ながらも進んでいきたい、自分で選択生きていきたいという推進力を感じる。この過程の中で初は主体性を獲得していくのだ。このシーンは今でも鮮やかに自分の中に残っている。

 果たして少女の自立をここまで鮮烈に描いた映画が今まであっただろうか。数少ない映画経験で語ることになるが、このような映画は今まで観たことがない。他にもあるなら作品名を提示してほしいと思う。とにかく少女漫画を原作に取りながら、クライマックスでは少女が主体性を獲得する、従来あまり出てこなかった結論が発露している、この点に観た直後は感覚的あものであったものの、とにかく感動し、心が震えた。私にとって忘れられない映画となったのだ。

 

 以上で山戸結希監督の作品語りは一区切りつけたいと思う。本当はもっと語りたいこともあったし、不十分な部分も多いとは思うが、これ以上考えてしまうとこのブログを更新できなくなってしまいそうなので、ひとまずここで更新したい。また語りたいことは改めてまとめていきたいと考えている。最後にはなるが、ここまでの才能を示した山戸結希監督は天才だと思うし、次回作が公開されるまで気長に待っていたいと考えている。素晴らしい映画を、ありがとうございました。