いののすけのブログ

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「やがて君になる」感想~「好き」をめぐる物語~

 ここ1、2年の間に触れた作品の中でも、とくに「やがて君になる」は傑作であった。久しぶりに原作を周回したし、アニメのブルーレイも買って特典としてついていたコメンタリーや絵コンテにもじっくり向き合った。ブルーレイを観た後、原作を一週間ほどで一気に読み返し、熱が残っているうちにすぐにでも感想をまとめようと思った。だが自分にとって大好きな作品であるからこそ言葉にするのが難しく、そうこうするうちにそれなりの時間が経過してしまった。それでも感想をまとめたい思いはくすぶり続けており、今回不完全でも思い切って書いてみることにした。どこに向かって着地するかはあまり見当がついていないが、思いをぶつけてみたい。

※以下ネタバレを含みます。

 

 

 まず「やがて君になる」を一言でまとめると、「好き」がわからない主人公・小糸侑が自分を好きな先輩・七海燈子と出会い、関係を深めていくうちに「好き」を知っていく話である。端的に言えば「好き」をめぐる物語といえる。とはいえ「好き」といっても、その内容は場面等によっても変動していく。その変動とともに、自分の感情も大きく揺らいでいった。そのため以下では「好き」をキーワードに自分の感情が揺さぶられた場面をピックアップし、その揺れを言葉にしていきたい。そしてそのあと作品全体のことを述べていきたい。(以下巻数・話数・発行年・ページは仲谷鳰著、KADOKAWA刊の「やがて君になる」より参照しています)

 

第10話言葉は閉じ込めて、第十話言葉で閉じ込めて 2巻(2016年)

  ここまでの話で侑は自分を好きになった燈子と関係を深めていき、特別な気持ちを抱き始める。だがこの話で物語は一つの転換を迎える。

 侑は燈子と接しているうちに、燈子が無理をしているのではと心配する。その中で燈子の姉の存在、そして燈子が姉みたいになろうとしていることを知る。その後侑は燈子と河原で向き合い、無理して姉みたいにならなくてもいいと告げる。その言葉を燈子は「死んでも言われたくない」(p.156)と拒絶する。そして自分が誰も好きにならないからこそ先輩は好きになったということを思い知り、「先輩のこと好きにならないよ」(p.162)と返す。

 この場面ではすごく切ない気持ちになった。まず燈子がなぜ侑を拒絶したかはこの後に描かれており、「好き」を束縛する、暴力的な言葉として捉えているためである。(p.169-170)「好き」という言葉にそんな意味が込められているとは考えたこともなかったが、この意味を否定することはできなかった。果たして好きな相手の性格や思想が変わってしまったとしても、その相手を好きでい続けられるのか。これに素直に「はい」と答えられる人はどれほどいるのだろうか。自分はとてもじゃないが、言い切れる自信はない。

 しかしこの意味で捉えてしまうと、他人からの「好き」を受け取れなくなってしまう。「好き」という言葉がネガティブなものとなってしまうからだ。だがそうすると自分のことを好きになったり、肯定したりすることは難しくなってしまう。燈子はまさにこの状態に陥っており、だからこそ侑は好きにならないことで特別であろうとした。

 だがここですれ違いが発生する。好きになりたい相手が「好き」を受け入れられないから、好きにならないと嘘をつく。特別であるためには嘘をつかないといけない。これはあまりにも切なすぎる。

 思いがまっすぐでは届かず、嘘を交えないといけなかった侑の気持ちに感情移入し、また「好き」という言葉の暴力性や自分を好きになれないといった部分で燈子の気持ちにも感情移入し、二つの気持ちに引き裂かれ、切なさばかりが募っていった。

 

第34話零れる 6巻

 第10話でのやりとりのあと、侑は燈子の望みである生徒会劇に協力する。ただその練習の中で燈子は自分の知らない姉の一面を知り、自分の思いに迷いが生じる。そんな燈子の姿を見て、侑は燈子を変えたいと願い、生徒会劇の脚本を変更する。新たな結末に最初は抵抗していた燈子も最後は受け入れ、生徒会劇は成功に終わる。第34話は劇の後の話である。

 燈子は姉の代わりではない、自分として生きたいと願い、行動に移す。そんな燈子を見て、侑は今なら自分の思いが伝わるのではないかと考える。そして二人は再び河原で向かい合い、侑の思いが零れ、燈子にキスをし、好きだと伝える。だが燈子の反応は予想と違い、「ごめん」という拒絶だった。侑はショックを受け、走って河原を立ち去る。

 この場面でも、すれ違いが生じている。燈子が「ごめん」と言ったのは、侑に嘘をつくことを強いてきたことを自覚したからであり、侑を拒絶したわけではない。だが侑が走り去ったあと、燈子は追いかけることができない。「好き」が怖くなってしまったのだ。(p.170)

 この場面でも切ない気持ちになった。一つのターニングポイントとなった第10話のあと、侑の行動により燈子の気持ちは変化する。それと同時に侑の気持ちも変化が生じていて、橙子に「好き」と伝えようと決意する。ここまでならお互いに気持ちが通じ合うはずである。

 だが実際にはすれ違い、かつ過去の記憶が燈子をかすめ、このすれ違いを解消できなかった。「好き」という気持ちを持った侑に対し、燈子は自分の変化を受け入れてくれるのかと不安になってしまう。こうして二人の気持ちのすれ違いが維持されてしまった。

 思いが通じ合っているはずなのに、過去のことや些細なきっかけが原因ですれ違いを解消できず、そんな展開にここでも切ない気持ちになった。

第40話私の好きな人 8巻

 第34話ですれ違った二人だが、紆余曲折を経て再び向かい合い、お互いの「好き」という想いを伝え合う。

 燈子は変わってしまったけども、侑が好きだと告げる。「頭が侑でいっぱいで 幸せだけど時々泣きそうで ぐちゃぐちゃになるけど 絶対なくしたくない」(p.20)と思っている。これに対し侑は、「好き」を「自分で選んで手を伸ばすもの」(p.25)と言い、「先輩がわたしの特別だって決めました」(p.27)と言う。こうしてお互いの気持ちを確かめあう。

 この場面では気持ちが通じ合ったことに対する喜びと同時に「好き」という気持ちについて一番考えさせられた。「好き」に関しては全体を通じて述べたいと思うので後述する。

 

全体を通じて

 ここまで作品のうち心が動いた場面を振り返ってきた。以下ではキーワードとなっている「好き」について考えてみたい。

 「好き」という感情にこれまで疑問を持ったことはなかった。恋に「落ちる」といった表現が示唆するように、理屈など関係なく、ある瞬間に突如降ってくるものだという思いが強かった。これは燈子の「好き」に近い。

 だが少し考えてみると、「好き」はそう単純でもないことに気づく。「好き」と特別には強い結びつきがある。きっかけは何であれ、ある人に興味を持ち、一緒の時間を過ごしていくうちに相手のことを特別だと思い、「好き」になる。こういったことも多い。確かに「好き」に変わる瞬間というものはあるが、それ以上にそれまでの選択が導く必然という要素も強い。これは侑の「好き」に近い。このようにそう単純に「好き」というのをまとめることはできない。

 そう考えていくうちに「好き」の強烈なパワーに気づかされる。「好き」が選択のその先に現れるものだとするなら、そこに至るまでには複数のプロセスを経ているわけで、その人の人生の積み重ねが「好き」に反映されていくこととなる。そう考えると「好き」はとてつもなく尊いものに思えてくる。「好き」は人間にとってとても大事なものであるという、当たり前だが重要なことに思いが巡っていった。

 

 以上のように「好き」に関する根源的な問いかけが「やがて君になる」の大きな魅力となっていると考える。その揺らぎの中で、自分の感情も大きく揺さぶられていった。そして以前別の記事で言及したように、「好き」が恋愛に当然には帰結しない百合だからこそ実現できたものであり、百合の魅力も改めて感じた作品であった。